|
|
![]() |
|
塩原に人間が住み始めたのは、縄文中期頃からで、温泉(元湯温泉)は、平安時代の大同年間(806)に、如葛仙という者によって発見された。その後、40年を経て弘法大師が、1187年には源三窟に由来する源三位頼政の嫡孫といわれる伊豆冠者有綱が、ここを訪れたと伝えられている。 塩原は、保元元年(1156)より文治年間まで塩原八郎家忠、その子忠通によって治められたという。塩原一族なきあとは、宇都宮氏の家臣であった君島信濃守により(1380頃から)応仁年間まで治められ、君島氏滅亡の後、これに代わって小山氏が塩原を領有することになり、初代橘朝臣(たちばなあそん)小山伊勢守から5代(文明8年(1476)より慶長2年(1597)に至る120年間の長き)にわたり、領有の座にあったといわれている。江戸時代に入ると、塩原は宇都宮藩の領土となり、明治に入るまで治められた。 その間、塩原は幾度かの天災にみまわれている。万治2年(1659)の大地震により、当時元湯千軒といわれ賑わっていた元湯温泉が、山津波のため土砂に流失し、壊滅的な被害を受けたという。天知3年と安政5年にも大地震にあい、人々は新湯、中塩原や下塩原へ移っていったといわれている。 慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争は、塩原温泉をも巻き込んだ。旧幕府軍の形勢が不利になると、会津軍や凌霜隊などにが、塩原を焼き払おうとした。この時焼き払われた民家は、149戸だったという。妙雲寺も焼き払われるところだったが、住民の渡辺新五左衛門が会津軍に嘆願したため、妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×印をつけることで焼失を免れた。 明治時代に入り、塩原は温泉地として脚光をあびるようになったが、その陰の力となったのは、時の県令・三島通庸である。明治17年(1884)に西那須野〜塩原間の道路を開削した。この道路の開通により、著名人も来塩するようになったのである。その代表的な人が、奥蘭田であり、尾崎紅葉であった。前者は『塩溪紀勝』を後者は『金色夜叉』を著し、塩原温泉のすばらしさを全国に紹介した。彼らのおかげで、塩原温泉は今日の繁栄をみるに至ったのである。 塩原町では、彼ら三人の遺徳をしのび、毎年9月18日に温泉祭と三恩人感謝祭を行っている。 明治22年(1889)4月、市町村制の実施により、横川・三依を分離して、湯本塩原・上塩原・中塩原・下塩原を合併し塩原村となる。さらに、大正8年(1919)、町制施行により塩原町となった。昭和31年(1958)9月には、農業地帯の箒根村と合併し、現在に至っている。 |